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フリースタイルBMXにハマるまで 自分がBMXにハマった理由は色々あったと思うが、思い当たることを挙げてみよう。話せば長くなるが、ヒマな人はつきあってネ。もともとは家の近所のホームセンターで、3980円のスケートボードを購入することから、こういう系のスポーツにハマる運命にあったのかもしれない。 このスケートボードはプラスチックの台湾製で、別に真剣にやるほどのスポーツとは考えられていなかった頃のことだから、近所の坂を下るだけだったが、それでもかなり楽しかった。そんな感じで、坂を降りるスポーツと思い込んでいたものが、ちょうどその頃、サーフィンワールドを出している出版社から、スケートボードワールドという雑誌が創刊されていて、(季刊で、たぶん4号ぐらいで廃刊になってしまったと思う)それで、アメリカのシーンや日本のパークの情報を知ることになって、その頃から日本にも何箇所かはスケートパークがあったし、カテゴリーの中にも色々あって、今で言うパーク(この時は今でいうバート、ハーフパイプとボウルが主流だったが)やスラローム、あとその当時は漠然とフリースタイルと言っていたのが、今のBMXで言うフラットみたいなカテゴリーがあって、ホントはそれぞれの専用ボードもあるのだが、当時中学生の自分は1つのボードで、出来る限りのことをしていたと思う。まだストリートというカテゴリーは存在していなかった時だったが、高い所から飛び降りたりもしていたので、トラックが壊れてしまったので、次に一回り大き目の、今度は木製のスケートボードを買って、また出来る限りのことをやっていた。当時はパーツをバラで売っていなかったので、コンプリートのみで手に入れるのが普通だった。今でもあるけど、トイザラスやディスカウントショップで売っているような箱に入って売っているようなヤツね。で、そのあと雑誌で得た情報から、日本でもパーツをバラ売りしているショップや、通販で売っているところもあるということを知ることとなるが、今と比べてもとても高価で、1台組むと3万以上はしていたと思う。しかし、2台目のボードが壊れるのをキッカケに、夢のアメリカ製のスケートボードを手に入れることになる。 デッキはAlva、トラックはACS580、ウィールはクリプトニクス、全部で3万ちょいぐらいだったと思う。それは正にカルチャーショックだった。今までボールベアリングだったのが、シールドベアリングに変わったことで、スピードが出るようになり、余裕で降りられた坂でとんでもないスピードが出てしまって、死ぬかと思ったほど性能が違っていた。その頃、鎌倉書房のSports NotesというスポーツのHowtoの本が出ていて、その本に出ているトリックを次々にマスターして、スケートボードによりハマっていくこととなる。その本には当然パークライディングのテクニックも載っていて、その時は初めて関東を離れ、仙台に住んでいたのだが、東北エリアにはスケートパークはなかったので、時々関東にパークを滑りに行ったものだ。 今言っても信じてもらえないかもしれないが、その当時の関東エリアには今と変らないぐらいかそれ以上のパークがあった。千葉の松戸にプロッガーサニーランドというのがあったし、渋谷の駅前の東急文化会館の屋上にもカリフォルニアスケートパークというのがあった。行ったことはなかったけど、他にも平和島や横浜にもパークはあったんだ。 そのSports Notesのシリーズで、スケートボードの後にBMXの号も出て、BMXにも興味が出てきてしまい、高2の時に最初のBMXを購入。しかし、そのBMXは半年程で盗まれてしまい、もう1台買うお金は持ち合わせていなかったので、上京するまではスケートボードをずーっとやっていた。 そして、学生時代アルバイトをするようになってから、ちゃんとしたメーカーのBMXを手に入れることになる。その時は世田谷の三軒茶屋に住んでいたので、井の頭線の新代田駅近くにワイルドキャット(平木さんがやってたお店、このお店からは多くのフリースタイルライダーが育った、田村健・和田幸司・石橋登・池田二郎など。まだマウンテンバイクもそれほどメジャーじゃなかった時代だから今思うと画期的なお店だったんだね)というBMX専門店があるのはリサーチ済みだったので、早速買いに行って、2台目のBMXを手に入れたんだ。で、やるのは当然フリースタイル、レースはレースコースに行かないとできないし、コースがとこにあるかも知らなかったので。スケートボードに近い感覚でできるから。さいわい近所にフリースタイルBMXの盛んな駒沢公園もあったし、どんどんのめり込んでいった、そうして技を磨き、コンテストにも出場するようになったんだ。 |