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CHASE 細かく説明する必要もなく、今も昔もチェイスのライディングはフラットランドシーン 全体にインパクトを与え続けている。ニュースクールで常に最も影響力の大きいライダー の考えを聞けることは、読者とって、重要であり、利益になると我々は思っている。 The Flatlander(TF):君とロブ“テックス”ザイヤーの作った、ゴーインバイシクルについて教えて。 Chase Gouin(CG): それは全て、テックスが何気なしに始めたことに溯る。どういうわけか、突然、何も無いところから連鎖反応を起こして、フレームを作るプロジェクトにまで発展した。“誰でもないだれか”が現れて、”Nothing“を俺に与えた。その時俺はどん底にいた。しかしその会社の出現と共に、事は静かに、スムースに動き始めた。最初のフレーム、"Nothing"は1999年11月には出るだろう。 会社の為に自分の名前を使うのは、最初ヘンだと思った。でも俺の名前は、世界中のフラットランダーにとって自分を重ねられるものではないか、と俺らはそれに決めた。なにも俺は自分をよく見せたり、俺の名前がついたバイクだから買え、と言おうとしているのではない。正直、長年のライディングと知名度を、商売の道具として使っているけれども。もちろんライダーにとって利益である方向に。それに、その品質と乗り心地が自らを語っている。だから心配はしていない。 TF: 誰をフラットランドの世界で尊敬していて、その理由は? CG: 多くのフラットランダーたちが尊敬と賞賛を受けているけど、ケビン
ジョーンズは特別だ。あるライダーたちは、彼がフラットランドに残した功績を悟ろうとも、認めようともしない。彼が全てのトリックのポジションを考え出したことは、全てのフラットランダーのコンビネーションが逃れることが出来ない事実だ。彼の驚異的な創造性は、今日見られるフラットランド、そのものを形作ってきた。誰がなんと言おうと、ケビンは、過去も、現在も、そして未来も、最も偉大なフラットランダーとして存在し続ける。 TF: BMXフリースタイルをスポーツと考えている?その理由は? CG: バスケットや野球といったスポーツが伝統的になっていくのは、シンプルで、誰にとってもコツをつかんだり、進歩が比較的簡単にできるからだ。観客もそれがどう進行していくかについて、親しみがあるし、理解している。そのゲームの構成はいたってわかりやすい物だ。ちょっとしたルールの改正、装備、技術の進歩があるが。でも基本的に昔から大きく変わってはいない。それに伝統的なスポーツはもともと、競争の為に考え出された物だ。一方で、BMXフリースタイルのは、捕らえどころがなく、限界が無い。数え切れない数のトリック、スタイル、バリエーションがある。それはどちらかというと主観的なもので、それゆえ本当の意味でコンテスト、という枠に詰め込むことは出来ない。 “競争”を前提としたスポーツは観客を想定し、彼らの金銭的援助によって支えられていると言っても過言ではない。最近、フリースタイルバイクライディングはより世に知られるようになり、ライダーはたいした額の金を稼ぐようになった。それはそれでいいことだ。しかし皮肉にもそれは、誰もが“命知らずな”ランプライディングを見たがっていて、フラットランドとは一体何なのか、理解する糸口すら掴むことが出来ないことを証明してしまっている。俺はそれが、フラットランドがX-Gamesから外されるのでは、という噂の真相だと思う。もし誰かがチャンネルセクションをブッ跳んで行くのを見れば、むしろ、“キレイなスピン”を車輪の上に乗っかって、飛び上がることもせず、地面の上で何かやっているのより、12フィート近くもハーフパイプを飛び出すほうが、誰もが立ち止まって見たがるんじゃないかな。 それを口に出すのは悲しいけど、結局それが全部、金に関わってくるんじゃないかな。概して、見栄えがいいってことは、露出を多く得やすいし、それが更に見栄えを良くして行くってことだ。 これがメディアが使う“競争的な競馬騎手のような精神”に追い込んでいくやり方だ。マイケル
ジョーダンが出ているゲータレードのコマーシャルは、全てのスポーツをやる女の子に対して挑戦している。その言葉は “あなたが出来ることは、僕はもっとうまく出来る。いや、君は出来ない。僕はできる。たいして時間もかからず君を追い抜く。”
みんな自分が特別を感じることで、他人より優位に立とうとすることから遠ざからなければならない。フリースタイルにはそういった考えの居場所がない。フリースタイル全体が自らスポーツになろうとはしていないし、フラットランドはそれらとは違う世界にある。 TF: フラットランドは、競技としてより、むしろ自分を表現する芸術だ、ということでいいのだろうか? それが“ジャッジ”されるなら、どういう方法があるのだろうか? 何が君をコンテストから遠ざけたんだろう。 CG: 俺はミステリアス、とかハードコア、アンダーグラウンド、コンテスト嫌いでいようと思っているわけではない。でも俺にとってコンテストが合わない理由は説明できる。 俺が初めて出場したコンテストは、Albe'sが主催した1985年のコンテストだった。俺は少しの緊張は予想したが、それは最悪だった。俺はコンテストの雰囲気に飲まれてしまって、震え、下痢、痙攣に悩まされた。それでもなんとか自分を奮い立たせて、ボロボロになりながら幾つかトリックを決めた。その時点では俺はコンテストに出るうちに、もっと簡単にやれるようになって行くだろうと思っていたが、それは期待外れに終わった。それがあって、俺は個々のトリックを繋げることに腐心した。そのトリックは俺が一度“コンテストコンボ”と烙印を押したトリックより難しくなっていった。 俺は反復練習が必要だと思ったが、それはすごく不自然に感じた。どんな時もコンテストをあたまの隅においておくようにしていた。全ての自然な流れ、スタイルは完全に消え失せた。それはただ気分の悪いだけだった。あるとき、トロントのコンテストのために、俺は決まった流れのコンボを3週間にわたってぶっ続けで練習した。それで俺のランの最初に彼らが俺の名前をアナウンスした途端、4つのトリックを連続して目茶苦茶にミス、で恥ずかしさとむかつきと共に会場を後にした。それは時間と進歩にとってただのムダに過ぎなかった。それは毎回起こる過度に誇張されたフライトだった。 それゆえ俺は普通にそこで振る舞えることは不必要とみるようになった。でもその裏にはすすんでそういうものに立ち向かおうとしていた。 これは俺の視点だ。もし本当にコンテストに出たくて、野望といい成績を残したいと思っているなら、彼らは決してナーバスにはならないだろう。でも俺はうまく乗って、楽しもうとおもったことはないんじゃないか?そういった場面で自分をクールに保って、リラックスし続けることは、自分ではどうしようも出来ない領域で、受け入れるしかない。でもみんなはいうかもしれない。“恐怖と向き合え”と。でも競争したいという刺激が自分の中にない。たとえ金を積まれてもそれが俺にヤル気を起こさせたり、態度を変えさせたりすることは出来ない。俺は時間はライディングに費やすべきで、乗りたい時はどうやっても、コンテストがないような時でも、と感じている。多くの人々は生まれつき競争的で、どれだけ他のライダーより勝っているか計るため、決めるために競争することを必要と感じている。これは彼らがどのくらいの位置にいて、どのくらいにランクされているのか知る手助けにはなるだろう。それを責めるつもりはない。でもそれは俺の考える方向ではない。俺は別にそうやって誰かをコンテストで上回ろうとか、第3者の前で競争をして、証明する人がいなくても、本当に自分がどれだけのレベルなのか、知ることができると感じている。特にフラットランドはもっと個人的な芸術的に自分を表現する手段だからだ。 競技において、誰かが誰かより上手く、そのプレッシャーの中で冷静でいることは明らかだ。俺はコンテストの実用的なありようを見ている。それは新しいライダーや、才能あふれる若いライダーに世に知られる、それから一緒に乗るようになって共にライディングに生き、成長していく、それだけでなく雑誌やビデオ、ジャムがそれらの目的を提供する。自分としては、コンテストに参加することはいつも意味が無く、重圧のかかる心の闘いでしかない。 |